アート脳

芸術とは文化であり、頭が良くなければ解らないものって言われますよね
感じることなのに、頭で理解する?? なんか変な感じですよね

例えばゴッホの抽象画をみて…これはなに?ってのもありますよね
人によっては「あなたにはまだ無理でしょう」な~んて言われたりしますよね

古池や 蛙飛び込む 水の音

「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」
という松尾芭蕉の有名な俳句がありますよね
では、これがなぜ有名なのか?ってのを考えたことはありますか?

もちろん芭蕉の俳句だから有名…ってこともあるでしょう…
文字からは単に「池にカエルが飛び込んだ」という情報しかなく
また、感じることってのも、カエルぐらいですよね

例えば、カエルを知らない赤ちゃんには理解出来ませんよね
さらに池そのものを知らないかもしれないし
古いという言葉も解らない…
そうすると、赤ちゃんは、この俳句を聞いただけでは
なにも理解できないってのは解りますよね
つまり、物事を知らないと理解が難しいということになります

では、その先を考えてみましょう
池もカエルも知っている
古いって意味も解ってる
カエルは両生類で、水辺にいるってのも知ってるし
池に飛び込むってのも知ってる
ポチョンって音もするだろう
ってことから
この俳句の、ありふれた光景を想像できます
それは、自分がある程度経験していたり
知識があるからですよね

ちょっと話が脱線するけれど
「ムンクの叫び」ってって絵がありますよね
コチラを向いたムンク?が叫んでるチョット怖い感じの絵

これ、「ムンクの叫び」って知られてるけど
正確には ノルウェーのムンクって画家が書いた「叫び」であって
ノルウェー語では Skrik 英語では The Scream という題名

絵というのは言語ではないので、その光景をイメージに結びつけやすい
コチラを向いた、デフォルメ?されたムンクが何がしかの理由で大声で叫んでいるのが怖い
というのは安易に想像できる…

でもね「叫び」のWikipediaでみると…

極度にデフォルメされた独特のタッチで描かれた人物、血のように赤く染まったフィヨルドの夕景と不気味な形、赤い空に対比した暗い背景、遠近法を強調した秀逸な構図の作品であるが、この絵は、ムンクが感じた幻覚に基づいており、ムンクは日記にそのときの体験を次のように記している。

「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」

つまり「叫び」はこの絵で描かれている人物が発しているのではなく、「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののいて耳を塞いでいる姿を描いたものである。
なお、ムンクがこの絵を発表した際、当時の評論家たちに酷評されたが、のちに一転、高く評価されるようになった。

(Wikipediaより一部抜粋)

叫んでいたのは背景であり、コチラを向いた人は、その叫びの中で耐えきれずに耳を塞いでいる光景…それがわかると、この絵の背景以上のものが見えてくる…
この絵の重苦しい空、川のよどみ、橋の不安定感、先に歩いている友人との関係、そして立ち止まって怯え、耳を押さえ恐怖に口を開いている人…
作者の意図している部分が、この絵を通して、この絵以上に理解、感じるようになる…
その世界に入りこむ…

それが芸術 アートなんだと思う

「ゴッホより普通にラッセンが好き~」と叫んでた芸人がいてますが
これ
意味の解らないピカソやゴッホの絵よりもラッセンの絵の方が綺麗だから好き
という一見、お笑い手法の「あるあるネタ」のようなんですが
もちろん、ラッセンの方が綺麗で艶やかではありますよね
そこが芸術というのなら、それでOKなんですが
その絵の先にあるもの…ラッセンの絵から想像をかきたてる何か!?
が見えてくるのか?というところに芸術という部分での良し悪しが別れます

ラッセンの絵がダメとは言ってません
(もちろん私はあのレベルの絵は描けません)
しかしゴッホやピカソ、そしてその他絵画に見られる絵に込められたもの
それは歴史や知識、感情などを経験して知ってるものが受けとめることのできるもの…
それを感じることこそが芸術である
ゆえに、この「ピカソより 普通に~」というのは
抽象画は気色悪いという人と、単純に綺麗な絵が芸術だという勘違いを主張する人を馬鹿にしてる(?)あるあるネタ

「あ~そうそう!」って真に受ける馬鹿と
「あ~そう主張する馬鹿いるよね~」という馬鹿にする人
二通りの「あるある」が存在する、特徴のあるネタと思う

芭蕉の俳句に戻るけど…
あの俳句から読み取れるものってのは
カエルがいるということから冬ではない季節、古い池ということで近代化されてないような所(ちょっとした田舎?)
その池の端から、カエルが池に飛び込むとポチャンという音とともに池に広がる波紋…
カエルが池に飛び込むチョットした音も聞こえるほどの静寂…
飛び込んだ後もその静かさは続いているが、池の波紋は音もなくまだ続いている

この句はその静けさを歌った句であり、句から風景・現象
そしていなくなったカエルから、その寂しさなどが一気に想像できますよね
「静か」という状態を「静か」という言葉を使わずに表すとこうなるのか?
「静かと言ってもどれ位静かなん?」ってのがこの句で
「あ~ぁ」ってのが理解できますね
って思うんだけど(笑)

人によっては、古池というのは忘れ去られた止まった世界、死の世界に「生」としてのカエルが飛び込むことで音が生まれ、動きが生まれるという世界にかわる…って意味と捉える面もあり…

人によって捉え方は千差万別…
その人の生きてきた経験などによって捉え方は変わってくる
一般的に万人受けするものってのは癖がなく逆に価値は薄い
これが答え!ってのがないのも芸術という世界なんじゃないかなぁ?って思うんです

例えば…
プレバトというテレビ番組は、私はあまり好きではありません
俳句で芸能人の才能を解説するというかランク付けする番組なんだけど
先生?が訂正していきますよね
それって、先生からみての添削というか感想であって
コレが正解ってのは無いと思うんです
もちろん奥が深い俳句などは、それを感じた時に「お~ぉ!」って思いますが
この番組の先生にどれだけの知識と経験があるのかな?なんて思います
みんな同じように良い句を出すとか、それを採点?なんてすると
個性が無くなる気もしますしね
もちろん、最低限のレベル?ってのはありますけどね(笑)

写真を撮った時、その被写体の全てが写真に入りきれてない時ってありますよね
人によっては「なんや、切れてるやないか?下手くそやなぁ」って言う人がいます
それもまた感想の一つです…
料理の写真を撮る時に、お皿部分が切れていた
横のグラスが半分しか写ってない
それでは真上から全部が入るように撮ればいいんですよね
でも、テーブルで出された料理を見るアングルで写真を撮ったら、そこにその料理があるように想像できませんか?グラスが少しでも写真に入っていたら、そこにグラスがあって、そのテーブルの広さとか雰囲気とか空気とかが想像できませんか?
逆にテーブルよりも低い位置から普通では見ないアングルから撮影されていても、また違った目線での料理の見た目の美味しさを感じられませんか?
見切れてることで、その見えてない部分を想像できませんか?
そこから世界が広がりませんか?

撮影の不味さってのはありますが、人の撮った写真や絵ってのはそれぞれに味があり
被写体が切れていようが、色が変であろうが、ピンぼけしていようが、それが意図したものであり
ちゃんとした意味があるのであれば、どんなものでも、味があり、その世界があると思います
そしてそれが芸術を楽しむということではないかなぁって思います

というわけでみんな!写真を撮ろう!絵を書こう!楽器を鳴らそう!何かを作ろう!
自分が思うこと、思ったことを他人に理解させる
そして共感する。感じる…
言葉を越えた、気持ち似た部分というところに
芸術という楽しみがある!